2015年 02月 16日
小さな村がありました |
戦争は父の世代の思い出話として聞いていた子どもの頃。
たくさんの町が焼かれ、広島や長崎に原爆が落とされて、戦争が終わって70年が経つ。その頃のことを知っている人はあらかた亡くなっているけれど、今なら歴史になる前の真実に触れることもできる。それがどんな不幸をもたらして終わったかを語れる人がまだいるうちは。
昔話の「遙か昔」と言うほどではないけれど、ここは百年前はわずか30戸ほどの田舎の村でありました。
1910年朝鮮併合(植民地支配)がはじまる。(日清・日露で優位に立ったから)
1931年満州事変に始まる中国への侵略
1932満州国建国 そして
1937年盧溝橋事件から日中戦争へ
1941年真珠湾攻撃からは世界を相手にする太平洋戦争へ
1945年8月6・9日原爆が、8月15日敗戦
15年もの長い戦争でありました。
小さなこの村のお墓に並ぶ戦没者の墓碑は戦後十年ほどしてたてられたもの。
立春を過ぎて春を思わせる穏やかな陽光をうけて立っています。あるものは今も花が供えられ、あるものはタバコが供えてありました。たぶん故人が好きだったことを知っておられる方なのでしょう。70年経っても忘れられてはいないのです。
そう思うと、もうちょっと知りたくなり、端っこから墓碑に刻まれた碑文を読ませてもらいました。(実名は伏せます)
死亡日 享年 場所
*Aさん 18年11月11日 25歳 ブーゲンビール島(パプアニューギニアの東)
*Bさん 19年8月26日 25歳 ビルマ モーライ県 患者集合所
*Cさん 19年10月9日 27歳 ビルマ サガイン県 モーメン
*Dさん 19年10月23日 23歳 フィリピン レイテ島 パロ
*Eさん 20年1月29日 34歳 中国 北支
*Fさん 20年6月5日 25歳 沖縄
*Gさん 20年7月17日 25歳 タイ メーホーンソン
このブログはグーグルの地図を受け付けないので省略しますが。地図上で見ると日本からはるか遠くから徐々に日本本土に近づいてくるのが分かります。それも、戦争が終わるという最後の1年にほとんどの方が亡くなっています。昭和20年に34歳だったEさんは僕の父と同い年だったのでは?とすると、みんなもっと若い人たちだったのだ。ウチの父は中支から復員してきた。
わずか30戸の村に7人の戦死者がいたことを、もう誰も頓着しないようになっているのならぼくがもう一度声に出そうと思った。
それで思い立ってとなりの村の墓にも行ってみた。ここの規模もウチの村と同程度なのだが、墓碑はやっぱり6つ立っていた。
ついでにもう一つと思って行った別の墓に墓碑は5つ立っていた。読んで回って一つの墓碑で僕は固まった。二人の名前が刻まれていたのだ。だからやっぱり6人戦死。同じ家に複数の戦死者が!そこのお母さんの悲痛な叫びが聞こえたように思った。
ウチの村のお母さんの一人は征って帰らぬ息子の訃報が認められなくてとうとう心を病んでしまわれたのだと聞いている。
紙上に「戦争」の活字が躍る時代を迎えて、今ほど不戦の意志をはっきりしなければいけないときはないだろうと思って
たくさんの町が焼かれ、広島や長崎に原爆が落とされて、戦争が終わって70年が経つ。その頃のことを知っている人はあらかた亡くなっているけれど、今なら歴史になる前の真実に触れることもできる。それがどんな不幸をもたらして終わったかを語れる人がまだいるうちは。
昔話の「遙か昔」と言うほどではないけれど、ここは百年前はわずか30戸ほどの田舎の村でありました。
1910年朝鮮併合(植民地支配)がはじまる。(日清・日露で優位に立ったから)
1931年満州事変に始まる中国への侵略
1932満州国建国 そして
1937年盧溝橋事件から日中戦争へ
1941年真珠湾攻撃からは世界を相手にする太平洋戦争へ
1945年8月6・9日原爆が、8月15日敗戦
15年もの長い戦争でありました。
小さなこの村のお墓に並ぶ戦没者の墓碑は戦後十年ほどしてたてられたもの。
立春を過ぎて春を思わせる穏やかな陽光をうけて立っています。あるものは今も花が供えられ、あるものはタバコが供えてありました。たぶん故人が好きだったことを知っておられる方なのでしょう。70年経っても忘れられてはいないのです。
そう思うと、もうちょっと知りたくなり、端っこから墓碑に刻まれた碑文を読ませてもらいました。(実名は伏せます)
死亡日 享年 場所
*Aさん 18年11月11日 25歳 ブーゲンビール島(パプアニューギニアの東)
*Bさん 19年8月26日 25歳 ビルマ モーライ県 患者集合所
*Cさん 19年10月9日 27歳 ビルマ サガイン県 モーメン
*Dさん 19年10月23日 23歳 フィリピン レイテ島 パロ
*Eさん 20年1月29日 34歳 中国 北支
*Fさん 20年6月5日 25歳 沖縄
*Gさん 20年7月17日 25歳 タイ メーホーンソン
このブログはグーグルの地図を受け付けないので省略しますが。地図上で見ると日本からはるか遠くから徐々に日本本土に近づいてくるのが分かります。それも、戦争が終わるという最後の1年にほとんどの方が亡くなっています。昭和20年に34歳だったEさんは僕の父と同い年だったのでは?とすると、みんなもっと若い人たちだったのだ。ウチの父は中支から復員してきた。
わずか30戸の村に7人の戦死者がいたことを、もう誰も頓着しないようになっているのならぼくがもう一度声に出そうと思った。
それで思い立ってとなりの村の墓にも行ってみた。ここの規模もウチの村と同程度なのだが、墓碑はやっぱり6つ立っていた。
ついでにもう一つと思って行った別の墓に墓碑は5つ立っていた。読んで回って一つの墓碑で僕は固まった。二人の名前が刻まれていたのだ。だからやっぱり6人戦死。同じ家に複数の戦死者が!そこのお母さんの悲痛な叫びが聞こえたように思った。
ウチの村のお母さんの一人は征って帰らぬ息子の訃報が認められなくてとうとう心を病んでしまわれたのだと聞いている。
紙上に「戦争」の活字が躍る時代を迎えて、今ほど不戦の意志をはっきりしなければいけないときはないだろうと思って
by otebox
| 2015-02-16 22:24
| 地域ネタ
|
Comments(12)
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saheizi-inokori at 2015-02-17 15:30
貴重な墓碑ですね。
パソコンのこちらから合掌。
秋田に住む友人が近くの村の戦争被害(死者が主体)を小さな冊子にまとめていました。ブログにも書いたつもりだけど、どこかに埋没してしまったです。
パソコンのこちらから合掌。
秋田に住む友人が近くの村の戦争被害(死者が主体)を小さな冊子にまとめていました。ブログにも書いたつもりだけど、どこかに埋没してしまったです。
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saheizi-inokori at 2015-02-17 15:33
この記事を紹介してもいいですか?
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otebox at 2015-02-17 16:37
昨夜、考えなしに書きましたので、ただのメモ書きみたいなもんですが、どうぞお使いください。
私はこの夏のウチの「地域の「地蔵盆」に子どもたち用に少し手を入れてお話にまとめるつもりです。本当にあった出来事なのですから。そのイベントには長崎で被爆体験を持つ友人にも体験をお話願おうと思っているのです。
私はこの夏のウチの「地域の「地蔵盆」に子どもたち用に少し手を入れてお話にまとめるつもりです。本当にあった出来事なのですから。そのイベントには長崎で被爆体験を持つ友人にも体験をお話願おうと思っているのです。
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saheizi-inokori at 2015-02-17 22:48
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sora
at 2015-02-18 00:19
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otebox at 2015-02-18 09:13
saheiziさんsoraさん声をとどけていただいてありがとうございます。あちこち見て歩くのが好きな私ですが、いまだに父が闘って蹂躙して回った中国を安穏に旅して回る神経にはなれないのです。彼は生きていれば100を超えています。穏やかな人物でしたが酔って口にする思い出話は酷いものでした。普通の人の感性をこんなに麻痺させてしまった戦争ってどんなだったか、その真実を庶民レベルで解き明かしてみたと思います。
背中を押していただいたようです。ありがとうございます。
背中を押していただいたようです。ありがとうございます。
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wawa38 at 2015-02-18 10:20
私の父も中支から復員したと聞いています(12年前に没)
食事の時に戦争に行った話をぽろっと語るときがありました。
今思うと、もっと聞いておけばよかったと後悔しています。
そして、私の生まれた地域にも、戦没者のお墓がこのように並ん
でいたのを思い出しました。母の故郷ですが、同級生の
男子は多くが戦死して、あの人とこの人しか残っていないと
言っていました。これはすごいことだと改めて思っています。近々、行って見てくるつもりです。
食事の時に戦争に行った話をぽろっと語るときがありました。
今思うと、もっと聞いておけばよかったと後悔しています。
そして、私の生まれた地域にも、戦没者のお墓がこのように並ん
でいたのを思い出しました。母の故郷ですが、同級生の
男子は多くが戦死して、あの人とこの人しか残っていないと
言っていました。これはすごいことだと改めて思っています。近々、行って見てくるつもりです。
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otebox at 2015-02-18 11:41
wawa38さん、私の父は65歳で亡くなりました。温厚で優しい父でしたから、おぞましい過去は封印していたのですが、村人たちの宴席ではどなたの口からも、我も我もと手柄話みたいに噴出するのでした。どれもこれも子どもの私でさえ人権感覚を疑うような酷いものでした。昭和2・30年代のことです。
そんな話を聞きながら育ったものですから、妓生パーティなんて韓国売春ツアーが取り沙汰されたときも、わたしは「さもありなんと」思ったことでした。
付和雷同の日本人にはなるまいぞ!の思いを強くした思い出です。
そんな話を聞きながら育ったものですから、妓生パーティなんて韓国売春ツアーが取り沙汰されたときも、わたしは「さもありなんと」思ったことでした。
付和雷同の日本人にはなるまいぞ!の思いを強くした思い出です。
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cocomerita at 2015-02-18 16:35
Ciao otebox さん
初めまして
Saheiziさんのところからやって来ました
心にずしんと響きました
小さなお墓達の もう止めてくれという叫びが聞こえるようです
私は一人の死は一人の死でとどまらないといつも思っています
一人の方の死は、その方の後に続いたであろう その方から派生されたであろう未来の命をも絶ち切っているのですから
そして彼らの死と一緒に 張り裂け 楽しく鼓動するにをやめたお母さん達やご家族の命を数えれば
それはすさまじいほどの数の生の殺戮と言えるでしょう
小さなことを小さな命を 一つ一つ 大事にできない者に 大きなことなどできるわけもないと思っています
利欲のみに走り ひとつひとつのささやかに存在する暮らしや命を踏みにじる 世界各国の首脳に 憤ります
初めまして
Saheiziさんのところからやって来ました
心にずしんと響きました
小さなお墓達の もう止めてくれという叫びが聞こえるようです
私は一人の死は一人の死でとどまらないといつも思っています
一人の方の死は、その方の後に続いたであろう その方から派生されたであろう未来の命をも絶ち切っているのですから
そして彼らの死と一緒に 張り裂け 楽しく鼓動するにをやめたお母さん達やご家族の命を数えれば
それはすさまじいほどの数の生の殺戮と言えるでしょう
小さなことを小さな命を 一つ一つ 大事にできない者に 大きなことなどできるわけもないと思っています
利欲のみに走り ひとつひとつのささやかに存在する暮らしや命を踏みにじる 世界各国の首脳に 憤ります
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otebox at 2015-02-18 17:35
ようこそcocomeritaさん。訪ねてくださって嬉しいです。私はこれまで私の書いたものにどなたが反応していただくことなど考えずに書きとめておりました。でも今はそれじゃいけなんだなって、発言することが大事だよって元気をいただいたように思います。ありがとうございます。
イタリアも第一次・第二次の大戦を経験しているので沢山の戦跡や記念碑が残っている筈ですね。以前、私が訪ねたBomarzoにも道端に忠魂碑のような碑板に沢山の戦死者の名前が彫られているのをみました。
イタリアも第一次・第二次の大戦を経験しているので沢山の戦跡や記念碑が残っている筈ですね。以前、私が訪ねたBomarzoにも道端に忠魂碑のような碑板に沢山の戦死者の名前が彫られているのをみました。
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wawa38 at 2015-02-19 14:52
丁寧なお答え、有難うございました。
私の父によれば、伯父も同時に召集されていて、終戦になって復員したとき、実家の玄関をくぐったら、伯父の妻が小さい子供と共にいて、自分の夫は帰って来ず、弟である私の父が先に帰ったものですから、泣かれてしまったそうです。
伯母さん、つらかったでしょうね。誰もがつらかったと思います。
数年後に伯父も復員しましたが、その伯母さんから聞けば、一時は私の父と結婚することも覚悟したそうです。
そのようなことがあちこちであった時代。日本の働き盛りの男性の大部分が召集されてしまったひどい時代を、もう一度、記憶し直しておく必要があると思っています。
中国など戦地での日本兵の蛮行については胸が痛みます。
朝鮮の植民統治もひどかった。日本人としてどんなにつらくても、歴史を冷静に見つめることは必要です。
長くなって、申し訳ありません。
なかなか、こういうことを言う機会もなくて、この場をお借りしてしまいました。
私の父によれば、伯父も同時に召集されていて、終戦になって復員したとき、実家の玄関をくぐったら、伯父の妻が小さい子供と共にいて、自分の夫は帰って来ず、弟である私の父が先に帰ったものですから、泣かれてしまったそうです。
伯母さん、つらかったでしょうね。誰もがつらかったと思います。
数年後に伯父も復員しましたが、その伯母さんから聞けば、一時は私の父と結婚することも覚悟したそうです。
そのようなことがあちこちであった時代。日本の働き盛りの男性の大部分が召集されてしまったひどい時代を、もう一度、記憶し直しておく必要があると思っています。
中国など戦地での日本兵の蛮行については胸が痛みます。
朝鮮の植民統治もひどかった。日本人としてどんなにつらくても、歴史を冷静に見つめることは必要です。
長くなって、申し訳ありません。
なかなか、こういうことを言う機会もなくて、この場をお借りしてしまいました。
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otebox at 2015-02-19 18:10
wawa38さん、私こそ書き込みに感謝しています。
戦争の惨禍などと決して一括りにはできないそれぞれの棘や疼きに向き合うことはもう今しかないのではと思います。風化させてはいけないですから。
戦争の惨禍などと決して一括りにはできないそれぞれの棘や疼きに向き合うことはもう今しかないのではと思います。風化させてはいけないですから。