2014年 03月 01日
40ン年ぶり |
新任教師だった僕が最初に赴任したのは今はなき京都府S町Y小学校H分校。講師だった1年間を別にすると、そこでの6年間が僕の教師歴のはじまり。思い出すと恥ずかしくて穴を掘りたいような新米の若造だった。子どもたちと力いっぱい遊ぶことだけで繋がってたような気がする。分校だから多くて16人、少ないときは12人の子どもたちだった。そんな数だったのに手こずってるような力量不足だったわ。思い描いたように授業が進まなかったり、意見を引き出せなかったり、騒がしくなったり・・・でも、言い訳するんじゃないけど、一生懸命だった事だけは言える。
最初に担任した子たちとは45年を経た今も熱い繋がりが続いている。いつかブログでも取り上げたが、彼らは卒業学年6年生の集まりじゃなく、分校で過ごした34年生の同窓会をするのだ。ほぼ3年毎に。
彼らも今や50代で、立場が逆転しちゃうほど平たい物言いで、風通し良く付き合えるようになっている。いつも楽しく近況を出し合って終えるのだが、前回に「先生の教えた学年全員集めたる。」と幹事さんが宣言して別れたのだった。
それから3年、今日がその同窓会の日だった。小学3年生や4年生で切り取って同窓会することなんてまあ無い。僕は分校の6年間、34年生しか持ってなかった。その子らが僕のために集まってくれるというのだから、ぼくは勇んで出かけた。
40ン年ぶりという再会も多かったのだが、それぞれの面影をたどりながら名前と顔が一致していくのが面白かった。なかなか思い出せないでごめんなさいもあったけどやりとりしながら、こっちがまるで覚えていないことを「先生あのときこう言うたやろ。あれから僕ずっと考えてん。」とかなんとか、教師の何気ない一言が人生を左右するほど重いものだったことを突きつけられてドキドキした。「そんなことあった?」と救いの手も入ってたすかったけど。
また、会いたかった子たちに会えて、「抱きしめてもええか。」とハグしたり、思い出に涙が出てきて声が上ずったりそんなことをしながら、あの6年間に教えてもらったのは僕の方だったんだと思った。
白状する。まだ嘴の黄色い若造教師が偉そうに夜毎家庭訪問して回り、上から目線でモノを言ってた。このように教えてやってるのにまだまだだなんて、自分の足りてない事なのにそんなことよく言えたもんだ。若気の至りってことで堪忍してや。
僕の分校の暮らしはハチャメチャだったけれど、子どもたちとの暮らしが大好きになって、御蔭でぼくは62まで現役を続けることができました。感謝!
みんなは次は喜寿か古希かなんて言ってたけど、次へ次へと再会を楽しみに生きていようと思います。
・・・と、ここまでは昨夜のうちに書いてupした。目覚めて昨夜を反芻してる。
40年の空白を埋めるに3時間はあまりに短くあっという間にお開きだった。だから一人ひとりにフォーカスできずにおわってしまった。健康の事、家族の事、仕事の事、話題を手繰っていると、みんなが自分の今をきちんと生きてるのが分かって嬉しい。現れなかった友達の事を心配する仲間意識も嬉しかった。
こんなサプライズがあるなんて、教師は悪い仕事じゃなかったわ。
最初に担任した子たちとは45年を経た今も熱い繋がりが続いている。いつかブログでも取り上げたが、彼らは卒業学年6年生の集まりじゃなく、分校で過ごした34年生の同窓会をするのだ。ほぼ3年毎に。
彼らも今や50代で、立場が逆転しちゃうほど平たい物言いで、風通し良く付き合えるようになっている。いつも楽しく近況を出し合って終えるのだが、前回に「先生の教えた学年全員集めたる。」と幹事さんが宣言して別れたのだった。
それから3年、今日がその同窓会の日だった。小学3年生や4年生で切り取って同窓会することなんてまあ無い。僕は分校の6年間、34年生しか持ってなかった。その子らが僕のために集まってくれるというのだから、ぼくは勇んで出かけた。
40ン年ぶりという再会も多かったのだが、それぞれの面影をたどりながら名前と顔が一致していくのが面白かった。なかなか思い出せないでごめんなさいもあったけどやりとりしながら、こっちがまるで覚えていないことを「先生あのときこう言うたやろ。あれから僕ずっと考えてん。」とかなんとか、教師の何気ない一言が人生を左右するほど重いものだったことを突きつけられてドキドキした。「そんなことあった?」と救いの手も入ってたすかったけど。
また、会いたかった子たちに会えて、「抱きしめてもええか。」とハグしたり、思い出に涙が出てきて声が上ずったりそんなことをしながら、あの6年間に教えてもらったのは僕の方だったんだと思った。
白状する。まだ嘴の黄色い若造教師が偉そうに夜毎家庭訪問して回り、上から目線でモノを言ってた。このように教えてやってるのにまだまだだなんて、自分の足りてない事なのにそんなことよく言えたもんだ。若気の至りってことで堪忍してや。
僕の分校の暮らしはハチャメチャだったけれど、子どもたちとの暮らしが大好きになって、御蔭でぼくは62まで現役を続けることができました。感謝!
みんなは次は喜寿か古希かなんて言ってたけど、次へ次へと再会を楽しみに生きていようと思います。
・・・と、ここまでは昨夜のうちに書いてupした。目覚めて昨夜を反芻してる。
40年の空白を埋めるに3時間はあまりに短くあっという間にお開きだった。だから一人ひとりにフォーカスできずにおわってしまった。健康の事、家族の事、仕事の事、話題を手繰っていると、みんなが自分の今をきちんと生きてるのが分かって嬉しい。現れなかった友達の事を心配する仲間意識も嬉しかった。
こんなサプライズがあるなんて、教師は悪い仕事じゃなかったわ。
by otebox
| 2014-03-01 23:59
| 学校・子ども
|
Comments(2)
Commented
by
MIKIMAMA
at 2014-03-04 11:21
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教師冥利に尽きますね~ヽ(・∀・)ノ小学生の時の担任だったお二人(お一人はY先生)は、今も私の中で生き続けておいでです。
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Commented
by
otebox at 2014-03-04 15:01
冷や汗たらーりの爆弾発言もありました。やけに記憶力のいい子が、引き出しの奥の方の記憶を出してくるものだから・・・
中で一番は「鼻血出るほど叩かれた・・・。」というやんちゃ坊主の思い出に、そんなこと記憶にございませんとは言えずに、謝りました。彼は恨みに思ってるどころか良かった方の思い出だったのだとか。そんな先生に会うことはなかったンだって。
中で一番は「鼻血出るほど叩かれた・・・。」というやんちゃ坊主の思い出に、そんなこと記憶にございませんとは言えずに、謝りました。彼は恨みに思ってるどころか良かった方の思い出だったのだとか。そんな先生に会うことはなかったンだって。