2013年 08月 20日
昭和ひとケタ世代へのオマージュ |
リビングのテレビで徹子さんと河童さんが話しているのを小耳にはさんだら、急に「少年H」を観たくなって2人で出かけた。テレビついでに言うとつい先だっても我家のリビングでは同じような経緯があったけど、そのときの「風たちぬ」にボクの食指は動かなかった。ボクの内側に、宮崎駿にはない思い入れが妹尾河童にはあったのだ。
うんと若い頃からファンだったわ。「河童の覗いた…」シリーズはみんな読んでるし、もちろん「少年H」も。旅するココロも、豊かな独創性も真似てみたいような示唆にとんだ人なのだ。それに奥様のお名前とニックネームがウチと全く同じなんで、そのことも背中を押してるカナ。その彼も83になったってさ。画面上に昔とちっとも変わらない彼の姿勢や生き様を覗き見ながら、萎えない好奇心と行動力をこのごろのボクは見失ってきていないか?????疑問符がリビングに充満したよ。
果たして、役者も良かったし「映画」は楽しめたが、父と母の生き方ほどにはH少年を表わしきれていなかったのではないか。当時の日本人たちからは明らかに落ちこぼれてそれゆえに時代をニュートラルに捉える事ができただろう家族の中で培われた感性で軍国日本の狭間を生きた河童さんに共感することはできた。戦争の最中にも不服従は立派、しかし敗戦後の世間や大人に向かって突き上げた彼の拳の落としどころがどこだったのか描かずに映画は終わっている。彼がこの後「舞台芸術の世界」にのめり込んで行くんだなぁと分かるような終わり方ではあったけれど・・・観た人が考えたらエエ…って事なんでしょう、きっと。
でも、その描ききれなかった事こそがぼくをして昭和ひとケタ世代から目が離せなかった理由なのだ。
昭和ひとケタは11~19歳で敗戦を迎えた。それまで信じて疑いをさしはさむ事もできなかった国体の骨組みが瓦解して、瞬時に脱皮する変わり身の早い大人達への不信感や絶望とどう折り合いをつけた彼がいるのかはボクが考えないといけないんだわ。映画の中でもあらゆるものが焼かれ瓦解した後の人々の適応の速さに不信感と憎悪をつのらせるHがいた。
10代といえばまだ柔らかな感性で自分創りに乗り出すところだ。ボクがいいなと思えたこの世代の人々は『信じて疑わない無知を恥じ、信じないで疑う精神』に取って代わらせたのだ。すなわち、自分の中に判断のモノサシを持ち、他人の価値基準に乗っかって生きないことを決めた。もちろん皆ではない。自分を貫くか真反対に自分を周りの色に染めてカメレオンのように生きるか、二者択一が難しい日和見もきっといるだろうけど、それこそがカメレオンさ。そんな人が大半なのは残念。
この方々のたった今の実年齢は87歳から78歳であるはず。「後期高齢者」などという呼ばれ方でそれぞれの人生の途上である。ぼくは昭和22年生まれだから、彼らとの差は大きくて21才、少なくて13才の隔たりがある。ま、親子と言うほど開いてはいないが兄弟と言えるほど近くもなくて、身近でお付き合いのある方はそれほどいない。
いや、全くいないわけじゃない。昨年秋に看送ったボクの兄は15歳違いだったし、ぼくがよく訪ねた高校の恩師は昭和元年の生まれだった。戦後生まれのモノの見方・考え方と多少のズレはあるものの、ぼくはいつの頃からか彼らに惹かれているのだ。
翻ってボクの11歳は「勤評」、13歳は「60年安保」、14歳は「全国学テ闘争」訳が分からないなりに社会が揺れていることを感じていた。15歳で高校生になってその上にもう一つ加わったのが、20世紀の人の世に差別が現存するという理不尽に行き当たる。親に大切に育まれ何の不自由もなく育ったくせに、自我の目覚めと世の中の動きに急かされるように反発し、自分つくりをしたのは高校時代だった。何を信じるか、どう生きるか、この頃ぼくにはまだ昭和ひとケタが見えていなかった。けど、彼らはこんな歳頃で瓦礫の中に投げ出されたんだ。
ボクは僕で占領下の混乱した日本が日本的なアイデンティティを喪失していく真っ只中に居て、アメリカ文化のカウンターパンチを浴びて育ったのだ。ちょうどひとケタ世代が皇国史観に染められていたように、アメリカのモノに心酔していたわ。映画「ウエストサイドストーリー」とベトナム戦争で目を覚まされなかったら、アホのままで人生を歩んだろうと思われる。
世間に対するカウンターカルチャー的なボクの生き方は親を悲しませはしたが、言ってる事を間違ってると親には一度も言われなかった。そして僕の中の天邪鬼も、周囲と同じを善しとせず自分は自分だと言い続けるものだから、気がつけばどこにも手本の無いような道を歩んでいる。そうやって50年・・・15歳の反体制少年は66歳の反体制オジンになったかって?いいえ、角が取れて調度いい加減な爺さんになりましたです。
話が前後して申し訳ないが、僕の中で「昭和ひとケタ」が大きくなりだしたのはボクが働き出してからだ。確かな自分を築いた方々はどの世代にもおられます(当たり前)だけど中でも、文化や芸術・芸能の分野でそれまでを壊し新しい価値をボクの目の前に広げて見せてくれたのは彼らだったような・・・。ボクは自分の生き方のヒントを彼らから得た。しかし彼らは言っている「真似るんじゃない、自分で創れ。」
そうでした。終わったわけじゃないこれからの人生に好奇の目で挑まないと・・・そして自身の錦を紡ごうっと。
うんと若い頃からファンだったわ。「河童の覗いた…」シリーズはみんな読んでるし、もちろん「少年H」も。旅するココロも、豊かな独創性も真似てみたいような示唆にとんだ人なのだ。それに奥様のお名前とニックネームがウチと全く同じなんで、そのことも背中を押してるカナ。その彼も83になったってさ。画面上に昔とちっとも変わらない彼の姿勢や生き様を覗き見ながら、萎えない好奇心と行動力をこのごろのボクは見失ってきていないか?????疑問符がリビングに充満したよ。
果たして、役者も良かったし「映画」は楽しめたが、父と母の生き方ほどにはH少年を表わしきれていなかったのではないか。当時の日本人たちからは明らかに落ちこぼれてそれゆえに時代をニュートラルに捉える事ができただろう家族の中で培われた感性で軍国日本の狭間を生きた河童さんに共感することはできた。戦争の最中にも不服従は立派、しかし敗戦後の世間や大人に向かって突き上げた彼の拳の落としどころがどこだったのか描かずに映画は終わっている。彼がこの後「舞台芸術の世界」にのめり込んで行くんだなぁと分かるような終わり方ではあったけれど・・・観た人が考えたらエエ…って事なんでしょう、きっと。
でも、その描ききれなかった事こそがぼくをして昭和ひとケタ世代から目が離せなかった理由なのだ。
昭和ひとケタは11~19歳で敗戦を迎えた。それまで信じて疑いをさしはさむ事もできなかった国体の骨組みが瓦解して、瞬時に脱皮する変わり身の早い大人達への不信感や絶望とどう折り合いをつけた彼がいるのかはボクが考えないといけないんだわ。映画の中でもあらゆるものが焼かれ瓦解した後の人々の適応の速さに不信感と憎悪をつのらせるHがいた。
10代といえばまだ柔らかな感性で自分創りに乗り出すところだ。ボクがいいなと思えたこの世代の人々は『信じて疑わない無知を恥じ、信じないで疑う精神』に取って代わらせたのだ。すなわち、自分の中に判断のモノサシを持ち、他人の価値基準に乗っかって生きないことを決めた。もちろん皆ではない。自分を貫くか真反対に自分を周りの色に染めてカメレオンのように生きるか、二者択一が難しい日和見もきっといるだろうけど、それこそがカメレオンさ。そんな人が大半なのは残念。
この方々のたった今の実年齢は87歳から78歳であるはず。「後期高齢者」などという呼ばれ方でそれぞれの人生の途上である。ぼくは昭和22年生まれだから、彼らとの差は大きくて21才、少なくて13才の隔たりがある。ま、親子と言うほど開いてはいないが兄弟と言えるほど近くもなくて、身近でお付き合いのある方はそれほどいない。
いや、全くいないわけじゃない。昨年秋に看送ったボクの兄は15歳違いだったし、ぼくがよく訪ねた高校の恩師は昭和元年の生まれだった。戦後生まれのモノの見方・考え方と多少のズレはあるものの、ぼくはいつの頃からか彼らに惹かれているのだ。
翻ってボクの11歳は「勤評」、13歳は「60年安保」、14歳は「全国学テ闘争」訳が分からないなりに社会が揺れていることを感じていた。15歳で高校生になってその上にもう一つ加わったのが、20世紀の人の世に差別が現存するという理不尽に行き当たる。親に大切に育まれ何の不自由もなく育ったくせに、自我の目覚めと世の中の動きに急かされるように反発し、自分つくりをしたのは高校時代だった。何を信じるか、どう生きるか、この頃ぼくにはまだ昭和ひとケタが見えていなかった。けど、彼らはこんな歳頃で瓦礫の中に投げ出されたんだ。
ボクは僕で占領下の混乱した日本が日本的なアイデンティティを喪失していく真っ只中に居て、アメリカ文化のカウンターパンチを浴びて育ったのだ。ちょうどひとケタ世代が皇国史観に染められていたように、アメリカのモノに心酔していたわ。映画「ウエストサイドストーリー」とベトナム戦争で目を覚まされなかったら、アホのままで人生を歩んだろうと思われる。
世間に対するカウンターカルチャー的なボクの生き方は親を悲しませはしたが、言ってる事を間違ってると親には一度も言われなかった。そして僕の中の天邪鬼も、周囲と同じを善しとせず自分は自分だと言い続けるものだから、気がつけばどこにも手本の無いような道を歩んでいる。そうやって50年・・・15歳の反体制少年は66歳の反体制オジンになったかって?いいえ、角が取れて調度いい加減な爺さんになりましたです。
話が前後して申し訳ないが、僕の中で「昭和ひとケタ」が大きくなりだしたのはボクが働き出してからだ。確かな自分を築いた方々はどの世代にもおられます(当たり前)だけど中でも、文化や芸術・芸能の分野でそれまでを壊し新しい価値をボクの目の前に広げて見せてくれたのは彼らだったような・・・。ボクは自分の生き方のヒントを彼らから得た。しかし彼らは言っている「真似るんじゃない、自分で創れ。」
そうでした。終わったわけじゃないこれからの人生に好奇の目で挑まないと・・・そして自身の錦を紡ごうっと。
by otebox
| 2013-08-20 22:45
| 独り言
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