2011年 09月 05日
とんと昔 |
ぼくのこのブログから「きんこのブログ」にワープしている方もおられましょうから、そちらの方でこの二日ほどK氏が出ているので懐かしくて、ぼくのブログでもこんなエピソードを補足しときます。
十年ひと昔というから、1990年と言えばもうふた昔以上前の話。と言ってもぼくはすでに40台にのっかってた。一緒にワイワイやってた仲間たちも30代ではあったが、皆今で言う「アラフォー」世代だった。それがどういう風が吹いたか韓国の農楽集団「サムルノリ」のコンサートをやろうってことを決めたのだ。彼K氏も仲間の一人ね。
これがそのときのチラシと写真。写真には金徳朱(キムドクス)はじめ4人のメンバーも写っている。左の端っこのイケメンがK氏、ぼくはキム・ドクスの後ろね。チラシを作ったのははぼく、踊っている4人をぶれているようにずらせて描いた。馴れない墨の手書き文字もぼくね。
みなジャズが好きの点で一致するメンバーだったから、それまでも一年に一二度ジャズライブを主催するようなことは続けていた。ぼくはジャズもだけど人の集まりや祭が好きだったので、人の輪の中に居るのが心地良くて参加していた。だけどこのときは田舎町の体育館に1000人集めようと言うのだから、ジャズライブの比ではなかった。赤いTシャツまで誂えるほど気合が入っていたの分かります?
結果的には7~800人を集めて物凄いサムルノリの演奏に出会えた日だった。演者も観客も渾然一体となって踊りの渦を作るサムルノリのフィナーレはこの田舎町でも実現したのだ。
K氏はブティック経営が本業だが、広いスペースをいろんな教室に貸したりもしている。ぼくは我家でのコンサートには必ず彼から30人分ほどのベンチを借りている。人を集めたくなるぼくのこの性分は、きっと死ぬまで変わらんでしょうなあ。
Jazzのこと
もちろん初めは訳も分からず何が何だか理解もなく聴いていただけだけど、ぼくのジャズ開眼はコルトレーンだった。学生時代はさておき、20代のぼくは山下洋輔トリオにどっぷり浸かっていた。なんといっても「生」がよかったのだ。
京都や大阪で聴けない訳ではないけれど、ジャズはやっぱり東京が進んでる。活きのいい演奏に出会える機会は少ない関西の田舎町にいて、ぼくらは東京でジャズ屋をやってるツレから情報を得て…こいつらは凄いゾ。関西ツアーに行く…なんて教えてもらうと、「それじゃ、帰り道ここに寄ってやってもらえる?」なんて風だったのが、だんだんだんだんジャズメンにも認知されるようになっていったのだ。ぼくらの耳も肥えてきて、パワーやノリを求めるようになったのも当然の成り行きだった。
こうやってぼくらは20年以上も、ここでジャズを聴くということを続けていた。この団体は10人以上の仲間が居て「La pasionaria」と名のっていた。情熱を連想させるこの名はスペイン市民戦争の女性闘士Dolores Ibarruriのコードネーム「トケイソウ」からきている。ぼくらは若くて熱かったのだ。
ふた昔も前は・・・
十年ひと昔というから、1990年と言えばもうふた昔以上前の話。と言ってもぼくはすでに40台にのっかってた。一緒にワイワイやってた仲間たちも30代ではあったが、皆今で言う「アラフォー」世代だった。それがどういう風が吹いたか韓国の農楽集団「サムルノリ」のコンサートをやろうってことを決めたのだ。彼K氏も仲間の一人ね。
これがそのときのチラシと写真。写真には金徳朱(キムドクス)はじめ4人のメンバーも写っている。左の端っこのイケメンがK氏、ぼくはキム・ドクスの後ろね。チラシを作ったのははぼく、踊っている4人をぶれているようにずらせて描いた。馴れない墨の手書き文字もぼくね。
みなジャズが好きの点で一致するメンバーだったから、それまでも一年に一二度ジャズライブを主催するようなことは続けていた。ぼくはジャズもだけど人の集まりや祭が好きだったので、人の輪の中に居るのが心地良くて参加していた。だけどこのときは田舎町の体育館に1000人集めようと言うのだから、ジャズライブの比ではなかった。赤いTシャツまで誂えるほど気合が入っていたの分かります?
結果的には7~800人を集めて物凄いサムルノリの演奏に出会えた日だった。演者も観客も渾然一体となって踊りの渦を作るサムルノリのフィナーレはこの田舎町でも実現したのだ。
K氏はブティック経営が本業だが、広いスペースをいろんな教室に貸したりもしている。ぼくは我家でのコンサートには必ず彼から30人分ほどのベンチを借りている。人を集めたくなるぼくのこの性分は、きっと死ぬまで変わらんでしょうなあ。
Jazzのこと
もちろん初めは訳も分からず何が何だか理解もなく聴いていただけだけど、ぼくのジャズ開眼はコルトレーンだった。学生時代はさておき、20代のぼくは山下洋輔トリオにどっぷり浸かっていた。なんといっても「生」がよかったのだ。
京都や大阪で聴けない訳ではないけれど、ジャズはやっぱり東京が進んでる。活きのいい演奏に出会える機会は少ない関西の田舎町にいて、ぼくらは東京でジャズ屋をやってるツレから情報を得て…こいつらは凄いゾ。関西ツアーに行く…なんて教えてもらうと、「それじゃ、帰り道ここに寄ってやってもらえる?」なんて風だったのが、だんだんだんだんジャズメンにも認知されるようになっていったのだ。ぼくらの耳も肥えてきて、パワーやノリを求めるようになったのも当然の成り行きだった。
こうやってぼくらは20年以上も、ここでジャズを聴くということを続けていた。この団体は10人以上の仲間が居て「La pasionaria」と名のっていた。情熱を連想させるこの名はスペイン市民戦争の女性闘士Dolores Ibarruriのコードネーム「トケイソウ」からきている。ぼくらは若くて熱かったのだ。
ふた昔も前は・・・
by otebox
| 2011-09-05 18:57
| 独り言
|
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