2010年 05月 27日
Cheewaさんのこと |
1997年1月25日(火)
夜行列車がファランポン駅に着いたら、カオサン通りの安宿を探そうと思っていた。沢木耕太郎をはじめぼくの読んできたタイ本の多くが、自由旅行者が掃き溜めのように寄ってくるこの界隈を取り上げていたからだ。しかし、埃と汗とシャワーレスな日々にピリオドを打ちたくて、軟弱になったぼくは目にとまったホテルに向かって歩いた。
駅前のホテルに入って、そこのトイレで洗面も着替えも全てを済ませた。「泊めてほしい。」とフロントへ行くと、受付嬢は言った。「あなた、今は朝の4時じゃありませんか。後にしてください。」「そうでした。では後ほど。」そう言って、自分の荷物を預けるとぼくはスケッチブックだけかかえて街へ出た。
暗闇にライトアップされた「ワットアルン(暁の寺)」を描いていると空がうす白んできた。思い立って「戦場に架ける橋」のカンチャナブリへ行くことにしたぼくは、バンコク・ノイ駅から列車に乗った。夜行の強行軍のつけがやってきて、ぼくはスケッチブックを枕に3人掛けベンチシートにダウンした。
どのくらい眠っただろう、人の気配に目が覚めた。髭もじゃの男がかがみこんで、眠っているぼくの様子をうかがっていたのだ。のばし放題の髭。垢じみて煮しめたような服装。物乞い?とっさにそう思ったぼくは起き上がり、男と向き合った。彼は正対して座し、手と目で語った。「スケッチブックを見せよ。」と言っているらしい。
「ウオーターカラー!」これが彼の発した最初の声だった。そしてこれがそのときの写真。 彼は芸術家だった。英語でのやりとりが進むうちに、人物像は次第にくっきりとしてきた。どこか琴線を刺激される面白い人だった。
それ以来ぼくと石のアーチスト・チーワさんの付き合いが始まるのだ。詳しくはぼくのホームぺージhttp://www.geocities.jp/otebox/thai97を覗いてみてください。thai98もね。
次の年、ぼくは妻を伴って、彼のアトリエのあるサイヨークを訪ねた。イグアナみたいなトカゲとコブラのいるジャングルの一夜は刺激的を通り越していた。チーワさんが撮ってくれた1枚。 そして、制作中のチーワさん。
チーワさんが「カンチャナブリに行くなら知り合いの日本人陶芸家がいるから訪ねてみろ。」と教えてくれたのがフジタさんだった。もちろんフジタさんとのやりとりもその日から始まる事になった。
昨日、フジタさんからメールをもらった。チーワさんが死んだ。いや正確には「死んでいた。」2008年の暮れのことだったらしい。ぼくはフジタさんに返事を書いた。
藤田様
お久しぶりです。思いがけない訃報に接し言葉を失っています。
チワーさんと出会った偶然、そして藤田さんに繋がっていくあの日の流れは今も私の心に新しいです。
彼の発するオーラは生命力に溢れ、そんなに簡単に人生の舞台を退く方ではないように感じていました。
ピカソなんかと比べたらアカンけど、ハチャメチャさは嫌いではありませんでした。
久しぶりに出会う芸術家らしい芸術家だったと思います。
ご無沙汰しておりますが、今でも、訪ねて行ったらジャングルからひょっこり顔をだされるような気がします。
きっと、三途の川でも、賽の河原でも嬉々として鉄ノミをふるっておられる事でしょう。
ネットで見ましたら、2008年12月のことだったんですね。ご冥福をお祈りします。
独りで世界をうろつくと、こんなに面白いことがあるんだぜっていう一つの記念碑的な出来事だったので、みなさんにも知ってもらいたくて
夜行列車がファランポン駅に着いたら、カオサン通りの安宿を探そうと思っていた。沢木耕太郎をはじめぼくの読んできたタイ本の多くが、自由旅行者が掃き溜めのように寄ってくるこの界隈を取り上げていたからだ。しかし、埃と汗とシャワーレスな日々にピリオドを打ちたくて、軟弱になったぼくは目にとまったホテルに向かって歩いた。
駅前のホテルに入って、そこのトイレで洗面も着替えも全てを済ませた。「泊めてほしい。」とフロントへ行くと、受付嬢は言った。「あなた、今は朝の4時じゃありませんか。後にしてください。」「そうでした。では後ほど。」そう言って、自分の荷物を預けるとぼくはスケッチブックだけかかえて街へ出た。
暗闇にライトアップされた「ワットアルン(暁の寺)」を描いていると空がうす白んできた。思い立って「戦場に架ける橋」のカンチャナブリへ行くことにしたぼくは、バンコク・ノイ駅から列車に乗った。夜行の強行軍のつけがやってきて、ぼくはスケッチブックを枕に3人掛けベンチシートにダウンした。
どのくらい眠っただろう、人の気配に目が覚めた。髭もじゃの男がかがみこんで、眠っているぼくの様子をうかがっていたのだ。のばし放題の髭。垢じみて煮しめたような服装。物乞い?とっさにそう思ったぼくは起き上がり、男と向き合った。彼は正対して座し、手と目で語った。「スケッチブックを見せよ。」と言っているらしい。
「ウオーターカラー!」これが彼の発した最初の声だった。そしてこれがそのときの写真。
それ以来ぼくと石のアーチスト・チーワさんの付き合いが始まるのだ。詳しくはぼくのホームぺージhttp://www.geocities.jp/otebox/thai97を覗いてみてください。thai98もね。
次の年、ぼくは妻を伴って、彼のアトリエのあるサイヨークを訪ねた。イグアナみたいなトカゲとコブラのいるジャングルの一夜は刺激的を通り越していた。チーワさんが撮ってくれた1枚。
チーワさんが「カンチャナブリに行くなら知り合いの日本人陶芸家がいるから訪ねてみろ。」と教えてくれたのがフジタさんだった。もちろんフジタさんとのやりとりもその日から始まる事になった。
昨日、フジタさんからメールをもらった。チーワさんが死んだ。いや正確には「死んでいた。」2008年の暮れのことだったらしい。ぼくはフジタさんに返事を書いた。
藤田様
お久しぶりです。思いがけない訃報に接し言葉を失っています。
チワーさんと出会った偶然、そして藤田さんに繋がっていくあの日の流れは今も私の心に新しいです。
彼の発するオーラは生命力に溢れ、そんなに簡単に人生の舞台を退く方ではないように感じていました。
ピカソなんかと比べたらアカンけど、ハチャメチャさは嫌いではありませんでした。
久しぶりに出会う芸術家らしい芸術家だったと思います。
ご無沙汰しておりますが、今でも、訪ねて行ったらジャングルからひょっこり顔をだされるような気がします。
きっと、三途の川でも、賽の河原でも嬉々として鉄ノミをふるっておられる事でしょう。
ネットで見ましたら、2008年12月のことだったんですね。ご冥福をお祈りします。
独りで世界をうろつくと、こんなに面白いことがあるんだぜっていう一つの記念碑的な出来事だったので、みなさんにも知ってもらいたくて
by otebox
| 2010-05-27 23:36
| 外国ネタ
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