2008年 05月 02日
Shakespeareと僕 |
シェイクスピアなんて知らないよ。いえいえ、かの有名人を無視しているわけではありません。偉大なその名前ほどには、我々日本人には浸透していないんじゃないかと思った出来事の報告です。
休日の朝のこと。近々、現在の住まいをたたみ、サンディエゴからデンバーに引っ越すアメリカの友人と話していた。彼等は学校運営の現役を引退し、若かった頃の思い出の土地に戻ろうとしている。いいなあ、ぼくもあやかりたいなあ。なんて思いながら話すうち、話はぼくに振られた。「引退」の話題は僕にも等しく迫ってきて、再任用で働き続けていることや、子ども達との毎日が気に入っていることを喋った。「It will be the last year of my teachers life. Needless to say, I enjoy my last days.」と最後に付け足し、話は終わった。
次の日、メールが来た。「I would imagine this last year teaching will be the epitome of Shakespeare's "Parting is such sweet sorrow".」とあった。シェイクスピアの一節が引用してあることはわかったが、それがなんという芝居のどの場面で語られるものなのか、皆目見当がつかない。欧米の文化を呼吸して育った人なら、難なく分かることなのかもしれないが、お手上げだ。「別れはかくも甘美な痛恨」なんて訳が正しいかどうか、自信も持てない。
時間ができてネットで調べてみた。シェイクスピアの「ロメオとジュリエット」のセリフだった。「お別れはこんなに甘く切ない」という現在ふうな訳がついていた。古めかしいという先入観のあった僕の訳のレトロなこと。自己嫌悪!
友人のメールの最後は「Enjoy every minutes!」と結んであった。言うまでもなく、言われるまでもなく、すべての瞬間を楽しんでいようと思った。
日本人だから「シェイクスピア」に疎くても、ま、許してや。だけど、だけど、それなら「近松」に詳しいかと訊かれれば、「もちろん!」と言えないのが僕なのです。だいたい、諺ぐらいなら出てくるけど、芝居の一節を用いるほど芝居が近くじゃない。僕には。 この写真は9・11ツインタワーのテロのあったひと月ほど前、誕生日のパーティに招かれて、ロッキー国立公園にある彼等の別荘で撮ったものです。踊っているのが友人です。
休日の朝のこと。近々、現在の住まいをたたみ、サンディエゴからデンバーに引っ越すアメリカの友人と話していた。彼等は学校運営の現役を引退し、若かった頃の思い出の土地に戻ろうとしている。いいなあ、ぼくもあやかりたいなあ。なんて思いながら話すうち、話はぼくに振られた。「引退」の話題は僕にも等しく迫ってきて、再任用で働き続けていることや、子ども達との毎日が気に入っていることを喋った。「It will be the last year of my teachers life. Needless to say, I enjoy my last days.」と最後に付け足し、話は終わった。
次の日、メールが来た。「I would imagine this last year teaching will be the epitome of Shakespeare's "Parting is such sweet sorrow".」とあった。シェイクスピアの一節が引用してあることはわかったが、それがなんという芝居のどの場面で語られるものなのか、皆目見当がつかない。欧米の文化を呼吸して育った人なら、難なく分かることなのかもしれないが、お手上げだ。「別れはかくも甘美な痛恨」なんて訳が正しいかどうか、自信も持てない。
時間ができてネットで調べてみた。シェイクスピアの「ロメオとジュリエット」のセリフだった。「お別れはこんなに甘く切ない」という現在ふうな訳がついていた。古めかしいという先入観のあった僕の訳のレトロなこと。自己嫌悪!
友人のメールの最後は「Enjoy every minutes!」と結んであった。言うまでもなく、言われるまでもなく、すべての瞬間を楽しんでいようと思った。
日本人だから「シェイクスピア」に疎くても、ま、許してや。だけど、だけど、それなら「近松」に詳しいかと訊かれれば、「もちろん!」と言えないのが僕なのです。だいたい、諺ぐらいなら出てくるけど、芝居の一節を用いるほど芝居が近くじゃない。僕には。
by otebox
| 2008-05-02 00:06
| 外国ネタ
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